2014年11月1日(土)雨
3連休初日、朝から小雨が降っています。
福島県白河市の関山(せきさん)と白河の関へ、東京野歩路会のバス山行に参加します。 私は福島の山は初めてです。関山もはじめて聞く山です。今日の参加者は、総勢22名です。
関山のコースは、硯石口(約350m)→関山満願寺(618.5m)→内松口(約390m) 約2時間の歩程です。
10:55 関山の硯石登山口近くに白河市の史跡「磨崖三十三観音及び阿弥陀三尊来迎像(通称:硯石三十三観音)」があります。
磨崖仏なので足場が悪く、リーダーと数人が近くまで登っていきました。
白河市史跡 「磨崖三十三観音及び阿弥陀三尊来迎像」ホームページより
関山の東麓、満願寺観音堂の東口参道の岩肌に刻まれている仏像群で、「硯石三十三観音」と通称されている。
一般に三十三観音とは、現世利益のために応現(仏や菩薩が衆生を救うため、時機に応じた姿となって現れること)する観世音菩薩の三十三応化身にちなんで考えられたものである。またこの三十三応化身に基づき設けられた三十三所観音霊場の本尊(千手観音・十一面観音)を一堂に集めたものも三十三観音と呼ぶ。硯石の三十三観音の像はほとんどが千手観音・十一面観音であるので、後者の三十三観音であり、他に阿弥陀三尊の来迎像(臨終に際して仏が往生させるため迎えに来ること)なども含めて37体の像と梵字などが彫られている。
これらの石仏は、いずれも江戸時代中期につくられたものと推定される。当時民間信仰が盛んだったことをうかがわせるものである。
再び車道に戻って、関山の登山口に向かいます。
11:05 硯石登山口着。登山道から、磨崖物があった小山を見ると紅葉が鮮やかです。
道は整備されています。
紅葉が綺麗です
12:00 二枚橋登山口からの車道に出ます。満願寺山門跡があり、下馬碑がありました。
12:10 少し登った参道で昼食をとりました。小雨が降っているので、ゆっくりは取れません。
12:25 午後の出発。山頂の満願寺へ向かいます。参道脇に観音様がありました。
12:40 満願寺着。満願寺は、730年(天平2年)に聖武天皇の勅願寺として行基が開いたと云われています。芭蕉も曽良と関山へ登ったといわれています。山頂に芭蕉の「おくのほそ道の山」の碑がありました。
満願寺から晴れていれば福島の山々が見えるのですが、雨で見えません。山々を記した方位盤がありました。
山頂はちょうど紅葉が見頃です。
青空があれば、この紅葉も映えるのですが。
13:00 満願寺山門跡まで戻り、内松登山口へ下山。
13:26 内松登山口着。
レインウェアーを着たままバスに乗り込み、白河市史跡「和泉式部庵跡と化粧の井」へ行きました。
白河市史跡 「和泉式部庵跡と化粧の井」 ホームページより
平安時代の才媛として紫式部、清少納言と並び称された女流歌人和泉式部の庵跡と伝えられる。式部は石川ノ郡真垣城主金子十郎国康の娘として生まれ、13才の時京都に上り大江雅致の養女としてその才学を賞され、後、上東門院(彰子(しょうし))の上局として奉仕、和泉守橘道定に嫁いだので和泉式部と称されたと伝えられる。
長久二年(1041)父国康が重病となり暇をもらい帰郷の途次、白河の関まで辿り着いたが、その頃土賊が蜂起していたため道路を通行できず、この地に留まり、草庵を結び携えて来た阿弥陀の尊像を祀りて戦乱の鎮まるを待った。しかし
白河の関に この身はとめぬれど 心は君が里にこそ行け
一首を詠んで故里に贈り、空しく帰洛したといわれる。その後天台宗の沙門正法という僧がこの庵を再興し、その阿弥陀尊像を祀って正法院と号していたが、その後、永禄二年(1559)咥雲という僧の代、寺を白河に移して浄土宗に改めた。
現龍水山正法院常宣寺がこれである。
化粧の井と称される井もある。
次は、白河の関へバスで移動します。
13:55 楽しみにしていた白河の関着。紅葉が見事です。今日一番です。白河市 白河関跡 【しらかわのせきあと】 ホームページより
白河関跡は、東北本線白河駅から南方約12kmの山間に位置しており、栃木県境からは約3km北の地点にある。
ここに南北約300m、東西250mで面積約58,000平方メートル、標高410mほどの丘陵があり、丘陵上には白河神社が祀られている。
白河関については、8・9世紀頃に書かれた文献資料にその名の記載がみられる。
承和(じょうわ)2年(835)12月3日の太政官符(『類従三代格』)に、「白河・菊多両?」について、俘囚の出入りと官納物資の通行取締りを長門国の関に準じてすべしとの記述がある。また、これには「旧記ヲ検スルニ?(せき)ヲ置キテ以来、今ニ四百余歳」とあり、この当時、関の設置年代は5世紀前半頃と認識されていたようである。
これより先、延暦18年(799)12月10日の太政官符(『河海抄』)に「白河・菊多?守六十人」の記述がみられる。
10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は歌枕として都人の憧景の地へと変化する。
寛政12年(1800)に白河藩主松平定信が考証の結果、空堀・土塁が残る現在地が白河の関であると断定して「古関蹟」の碑をこの地に建てた。
昭和34年から5ケ年にわたって、ここが関跡か否かを実証的に確認することを目的として発掘調査が実施された(関の森遺跡)。この調査においては、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、土坑、柵列などが確認され、特に竪穴住居跡を中心に8・9世紀の土師器や須恵器、あるいは鉄製品が出土している。そして、調査において確認された遺構・遺物、遺跡の立地的考察から、ここが白河関跡の条件にかなう点が多く、国史跡として指定された。
関跡の年代については、発掘調査の成果や白河関跡の記載がみられる文献資料の成立年代などから考えて、機能していたのは8・9世紀頃と考えられる。
芭蕉と曽良の像が、白河関の森公園に建てられています。芭蕉は、歌枕の白河関にぜひ訪れたかったのでしょう。
台座には、
●風流の 初めや奥の 田植うた
●卯の花を かざしに関の 晴着かな
芭蕉と、曽良の句が刻まれています。
白河関に関連した和歌
●白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり(西行)
●たよりあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと (平兼盛)
●都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関(能因)
●都には まだ青葉にて見しかども 紅葉散りしく白河の関 (源頼政)
●見て過ぐる 人なければ卯の花の 咲ける垣ねや白川の関(藤原季通)
●白河の 関の秋とは聞きしかど 初雪わくる山のべの道(久我通光)
白河関は、古代からあった関です。その頃は蝦夷の南下に備えた関だったそうですが、平安時代、都から遥か遠い未知の地への象徴的関だったのかもしれません。その後、だんだん場所が特定できなくなり、芭蕉が訪ねた(1689年)ころは、特定できていませんでした。いまは、白河関跡周辺は、白河関の森公園となっています。白河関跡には、空堀、土塁の跡があり、関が要塞だったことが分かります。
芭蕉が先人の歌に導かれて白河関を訪れたように、私たちは芭蕉の「奥の細道」をたどっています。
14:30 東京へ向けて出発。
帰りのバスの中で、先人の白河関の思いを考えさせられて帰りました。
内松登山口→”和泉式部庵跡と化粧の井”→”白河関”へは、バスで移動です。歩いたのは、関山のみです。
説明は、白河市のホームページより引用させてもらいました。